今年は正月早々忙しくなるので、ペースを上げて更新します。10日からのバレーボール大阪大会に便乗し、5月に予定している大阪試聴会の打ち合わせをするからです。あと一週間しかありません。
ニダーくんのアンプ講座が好評ですが、これほど噛み砕いて、小学生にも分かる説明は他にはないはずです。しかし、なぜ他の人は噛み砕いて教えることが出来ないのか?それは、些細な疑問を解決しないで、分かったつもりで先に進むからです。基本で分かっていないのだから、先に進めば進むほど余計に分からなくなって難解だと決め込む。
僕が古代史で書いているように、「疑問を疑問として受け止める感性」が日本人には極端に不足している。疑問に思うところを素通りして、僕にとってはどうでもよい価値の無い事に固執して考えている振りをする。どうも、小学校の教育に問題がありそうです。
というのも、小学校の先生は専門課程の経験がなく、単純な記憶力だけで大学に入って教員採用試験を合格する。人生で考えることなく先生になり、人様の子供に教えるという暴挙をする機会に恵まれる。自分が考えたことがないのだから、子供に噛み砕いて教えることは絶対にできない。せいぜい、教員用のマニュアルを読んでハウツーを記憶するしかない。
このような先生に教わると、記憶優先で、少し難しい言葉を覚えれば賢そうに見られるという体験児童になる。そのささやかな成功体験から、見栄っ張りで、テストの成績ばかり気にするようになり、その反動で進学校や一流大学に入れないと落ち込んでしまう。親にダメな奴と思われるのが一番こたえるみたいですが。
日本人は多かれ少なかれ受験競争を強いられ、自分で考えるという、脳の育成に極めて重要な過程をスキップし、答えの出ている計算問題を解くのが考えることだと誤解したまま成長する。東大出身者と話してみて、こいつは馬鹿だと感じた人も多いと思いますが、東大生も、答えの出ていないものに対しては弱いと言われています。メモリーばかり優秀でも使えないパソコンと同じです。
そもそも、考えるという事の本質は何か?その答えは「カンガエル」ではなく「カン・ガエル」にあります。「カン・ガエル」とは、「勘・換える(変える)」という意味で、行き詰まった思考パターンに変化を与えることを指します。ミンスの管元総理が冷たい視線を浴びて帰ることではありません。
結論が出ない堂々巡りの思考は、膠着した思考なので「勘・換える」事で発想の転換ができます。頭が悪いのと同義で「勘が悪い」とか「勘が鈍い」とか使われますが、「感・換える」でも「間・換える」でも「勘・換える」と同じく変化をもたらす効果があります。
思い込みが激しくて、自分の考え方の悪さに気が付かない人。
一つの考え方に固執して視野が狭い人。
堂々巡りして結論の出せない人。
最初から難しいと決め込んで難しく考える人。
専門書や著名執筆者の書いてある権威を金科玉条として信じる人。
自分は馬鹿だからと考えようとしない人。
このような人たちは、自由がなくなっているのだから、発想を転換する、視点を変える、逆立ちしてみる、作り上げたものを壊してみる、などなどを意図的に試みる必要があります。
頭の良い人は
1. 仮説を立てて考えることが出来る
2. 前提条件を変えながら結果のシミュレーションが出来る
3. 失敗も含めた経験値をフィードバックして理論を構築できる
4. 途中で投げ出さない
5. 自由な発想ができる
このような特徴を有しています。これが日常的に行われるのが、プロ棋士による将棋です。将棋は勝負が決してから、感想戦というもので途中の手を吟味します。指手がこうだったらどうなったか?と前提条件を変えて以降の変化の形を議論する。将棋には、日本人のインテリジェンスが凝縮されている。子供に将棋をやらせて、すぐに投げ出すようでは余り期待しないほうが良さげですね。期待するだけ子供の重荷になりますから。
新春お好み将棋対局~女流棋士壮絶バトル~
2015年1月2日(金) 13時00分~15時00分 教育テレビ
竹俣紅 出ない orz 室谷由紀 出ない orz
エフライム工房 平御幸
ニダーくんのアンプ講座が好評ですが、これほど噛み砕いて、小学生にも分かる説明は他にはないはずです。しかし、なぜ他の人は噛み砕いて教えることが出来ないのか?それは、些細な疑問を解決しないで、分かったつもりで先に進むからです。基本で分かっていないのだから、先に進めば進むほど余計に分からなくなって難解だと決め込む。
僕が古代史で書いているように、「疑問を疑問として受け止める感性」が日本人には極端に不足している。疑問に思うところを素通りして、僕にとってはどうでもよい価値の無い事に固執して考えている振りをする。どうも、小学校の教育に問題がありそうです。
というのも、小学校の先生は専門課程の経験がなく、単純な記憶力だけで大学に入って教員採用試験を合格する。人生で考えることなく先生になり、人様の子供に教えるという暴挙をする機会に恵まれる。自分が考えたことがないのだから、子供に噛み砕いて教えることは絶対にできない。せいぜい、教員用のマニュアルを読んでハウツーを記憶するしかない。
このような先生に教わると、記憶優先で、少し難しい言葉を覚えれば賢そうに見られるという体験児童になる。そのささやかな成功体験から、見栄っ張りで、テストの成績ばかり気にするようになり、その反動で進学校や一流大学に入れないと落ち込んでしまう。親にダメな奴と思われるのが一番こたえるみたいですが。
日本人は多かれ少なかれ受験競争を強いられ、自分で考えるという、脳の育成に極めて重要な過程をスキップし、答えの出ている計算問題を解くのが考えることだと誤解したまま成長する。東大出身者と話してみて、こいつは馬鹿だと感じた人も多いと思いますが、東大生も、答えの出ていないものに対しては弱いと言われています。メモリーばかり優秀でも使えないパソコンと同じです。
そもそも、考えるという事の本質は何か?その答えは「カンガエル」ではなく「カン・ガエル」にあります。「カン・ガエル」とは、「勘・換える(変える)」という意味で、行き詰まった思考パターンに変化を与えることを指します。ミンスの管元総理が冷たい視線を浴びて帰ることではありません。
結論が出ない堂々巡りの思考は、膠着した思考なので「勘・換える」事で発想の転換ができます。頭が悪いのと同義で「勘が悪い」とか「勘が鈍い」とか使われますが、「感・換える」でも「間・換える」でも「勘・換える」と同じく変化をもたらす効果があります。
思い込みが激しくて、自分の考え方の悪さに気が付かない人。
一つの考え方に固執して視野が狭い人。
堂々巡りして結論の出せない人。
最初から難しいと決め込んで難しく考える人。
専門書や著名執筆者の書いてある権威を金科玉条として信じる人。
自分は馬鹿だからと考えようとしない人。
このような人たちは、自由がなくなっているのだから、発想を転換する、視点を変える、逆立ちしてみる、作り上げたものを壊してみる、などなどを意図的に試みる必要があります。
頭の良い人は
1. 仮説を立てて考えることが出来る
2. 前提条件を変えながら結果のシミュレーションが出来る
3. 失敗も含めた経験値をフィードバックして理論を構築できる
4. 途中で投げ出さない
5. 自由な発想ができる
このような特徴を有しています。これが日常的に行われるのが、プロ棋士による将棋です。将棋は勝負が決してから、感想戦というもので途中の手を吟味します。指手がこうだったらどうなったか?と前提条件を変えて以降の変化の形を議論する。将棋には、日本人のインテリジェンスが凝縮されている。子供に将棋をやらせて、すぐに投げ出すようでは余り期待しないほうが良さげですね。期待するだけ子供の重荷になりますから。
新春お好み将棋対局~女流棋士壮絶バトル~
2015年1月2日(金) 13時00分~15時00分 教育テレビ
竹俣紅 出ない orz 室谷由紀 出ない orz
エフライム工房 平御幸