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Channel: 平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図
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出雲と三輪山~モーセとゲルションの神社

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中山市朗氏の『聖徳太子の「未来記」とイルミナティ』を購入している読者もいるので、前回の続きを書くことにしました。中山市朗氏は一体何を、ガルパンのモモちゃんのように至近距離から外しているのか?

実は、前回書いた内容には矛盾があるのです。しかし、矛盾を提出しないことには先に進めないレトリックがある。その矛盾を説明する前に、四天王寺の鳥居を正しく説明しなくてはならない。


四天王寺の境内(西に鳥居がある)


5月に読者と行った時の四天王寺
ちゃんと鳥居をくぐっていた (^_^;)

中山市朗氏は、四天王寺の鳥居が東を向いているので、春分・秋分の太陽が生駒山に上るのを拝むことができると書いています。しかし、全く同じ方位のものが神聖な場所にあるのです。それは三輪山の大神神社。大物主の住処です。


真東にある大神神社の鳥居と三輪山


右が東で上が北

三輪山は山が御神体で、鳥居から見える太陽を拝む風習はないはずです。山を拝むなら、地理的に南から拝むこともできる。南に鳥居を作っても問題ないはず。とすれば、四天王寺も大神神社も、西に鳥居を作る余程の理由が存在するはずです。結論から言えば、それはモーセの子ゲルションにあるのです。

モーセは偉大な預言者なのに、その子孫は聖書から抹殺された。世界中で唯一、僕だけが物部氏はモーセの子孫だと書いている。では、聖書ではモーセの子孫はどのように扱われたのか?

モーセも兄のアロンも祭司のレビ族の出身です。しかし、モーセの長男がゲルションで、先祖のレビの長男もゲルションとなっています。これは明らかにおかしい。なぜなら、ゲルションの名前の意味は他国への寄留者だから、ミデヤン人の元に身を寄せたモーセが息子に命名するのは分かる。でも、先祖のレビがエジプトへ身を寄せた時は80才近くで、もう長男も孫も生まれていたのです。ゲルションと命名する理由がない。レビの子ゲルションは捏造。

ここには、アロン系祭司の捏造があるのです。そもそも、モーセ五書と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の中で、明確にモーセが書いたとされるものはありません。イスラエル分裂からバビロンの虜囚を経て、その頃に書かれたものの可能性がある。

では、なぜに、アロン系祭司はモーセの子孫を旧約聖書から抹殺したのか。その理由はおそらく、ゲルションの子孫が会見の幕屋の西を支配したからです。

『民数記』3章23-26

ゲルションびとの氏族は幕屋の後方、すなわち、西の方に宿営し、ラエルの子エリアサフが、ゲルションびとの父祖の家のつかさとなるであろう。会見の幕屋の、ゲルションの子たちの務は、幕屋、天幕とそのおおい、会見の幕屋の入口のとばり、庭のあげばり、幕屋と祭壇のまわりの庭の入口のとばり、そのひも、およびすべてそれに用いる物を守ることである。

このように、ゲルションの子孫は会見の幕屋の西に宿営し、天幕と付属品の管理に従事した。アロンの子孫は、祭司職として儀式を執り行い、その他のレビの子孫は雑用に使役された。ゲルションの子孫は西に宿営したから、これが大物主(モーセ)を祀る大神神社や四天王寺の鳥居が西に置かれる理由なのです。

ソロモン神殿が完成して、アロン系祭司に見捨てれた会見の幕屋は使われなくなった。モーセ系のゲルションの子孫は、密かに会見の幕屋を隠し、日本に運び入れた。保管されている場所は不明。三輪山ではないでしょうか。幕屋はヘブライ語で住居を意味するミシュカン。巳主館で蛇神の大物主が出てきますから。もっとも、御主館かもしれませんけど。ヤカタとはヤハウェの方。

レビの子孫はゲルションとコハテとメラリの三人なのに、モーセやアロンを排出したコハテ系がアロンを除いて落ちぶれている→『歴代誌上6章』。これは、アロン系祭司の優位を確立するために、モーセ五書が改竄されたことを意味する。おそらく、偉大なモーセの言葉として書かれたものの多くは、アロン系祭司の捏造。

モーセにより「牛を拝んではならない」と厳しく叱責されたアロン。アロンの子孫には劣等感があったはず。その劣等感が、モーセ五書を改竄してモーセと子孫を貶め、抹殺する情熱となった。だから、レビ族はレビヤタンの龍として、ヨハネの黙示録の龍に仮託されているわけです。

さて、前回書いたことには矛盾がある。それは、「ミトラ教は牛を拝み、また燔祭として捧げる。これが、モーセ系の牛を拝むことを禁じる物部神道と対立することになる」という箇所です。

実は、物部神道はユダヤ教なので牛の燔祭はあったはず。物部系の諏訪神社などでは牛の燔祭があったとされています。燔祭の有無で分けることは出来ないのです。

ではなぜ、物部氏はミトラ教=弥勒信仰の聖徳太子や蘇我氏と対立したのか?その謎を解く鍵は、物部氏は滅びていないということにあります。物部から石上(いそのかみ)に改名した石上麻呂という人物が、最高位の左大臣になっています。

物部麻呂は壬申の乱の時に天智側に付いた人で、天武時代には新羅にも行ってます。左大臣になったのは和銅元年の708年。まだ古事記も日本書紀も出来ていませんし、右大臣は日本書紀を編纂した藤原不比等です。

石上麻呂は、日本書紀を編纂している藤原不比等に新羅や物部神道の事を教えたのではないか?705年に唐の則天武后が退位し、則天武后が保護した弥勒信仰も後ろ盾を失った。712年の古事記完成と720年の日本書紀完成は、則天武后の死と弥勒信仰の終わりを見てのものだった。だから、弥勒信仰の聖徳太子を仏教の保護者に仕立て上げ、ついでに景教のイエスにも似せて描いた。唐で景教が弾圧されるのは平安時代ですから。

ここまで書くと分かるように、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立などなかった。聖徳太子も聖人ではなく、ミトラ教=弥勒信仰のために日本を滅ぼしかけた。モーセ系の預言者が復活する末の日のために、物部氏は表舞台から去り、地方に移住し、残されたものは四天王寺に住み込むようになった。

物部氏の枚方の地震と、出雲と同じズーズー弁の青森の下北半島の地震。これは、モーセと物部氏が復活する予兆なのだと思います。


イスラエル12部族の宿営と、モーセ、アロン、ゲルションの宿営(画像はこちらから)
上が西でゲルションとエフライムが隣同士
エフライム族は訛が酷くてズーズー弁のルーツと思われる
ゲルションの子孫はエフライム族と行動したのでズーズー弁も受け継いだ

なお、垂仁天皇の子、誉津別命(ほむつわけのみこと)は言葉を話せなかったが、これは出雲大神の祟りであった。出雲はモーセを祀るので、唇に割礼を受けていないと形容されたモーセの吃り(ドモリ)を暗示しているのである。ホムツワケは穂陸奥別と書くことができるので、モーセの子孫は陸奥=東北に移住したと分かる。

     平御幸(Miyuki.Taira)

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